2021/04/12

襤褸BORO


襤褸、そしてBОRО

 着物の下に着る襦袢には、古布商が寄襦袢と呼ぶ色々の布片を寄せて縫った襦袢が知られる。ときに配色の妙に惚れぼれするが、見えないところを適当に別布でごまかした庶民の知恵であって、遊女の赤襦袢とは原点が違う。決してお洒落からではない。その貧しい染織品の魅力に魅入られた一人に左派的な志向が強い古布商の堀切辰一(1925~2019)がいた。堀切の視線は、貧乏な暮らしにたいする抵抗と彼らへの暖かい視線であり、視線は、いわゆる東北地方で多見されるツギツギモノに拡大した。木綿の布きれをこれでもかと縫い重ねた野良着である。
堀切は、ツギツギモノに「襤褸」の言葉を冠してこれを称揚した。

昭和時代後期、古布が高騰するなかで、ツギツギモノにも光があたり、やがて別の視点で注目した人のなかに森田直(1933~)がいた。先行した堀切は北九州を拠点に活動し、森田は青山の骨董街に「古民藝森田」を構え、世界の古布の動向に耳を澄まし、眼を利かせて襤褸の市価を高め、その著(『布の記憶』青幻舎)のなかで、「絹のボロを襤褸、木綿のボロをBОRОと呼びたい」と提唱した。お洒落な呼称の登場もあり、ボロの人気が一段と高まったことは言うまでもない。森田は古布派だけでなく、世界のアパレル業界に新鮮な素材としてBОRОを提供した。追爾ながら堀切は、1993年から収集した古布を北九州市立自然史・歴史博物館に寄付をはじめ、最終的に2500点に達した。これを受け入れた市は、堀切コレクション時代布目録を「襤褸」と題し整理を進めている。

118回古裂会オークションより

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